5集以降、とても辛い時間を過ごした。 仕事を全てひっくり返したかったが、そんなこともできない
状況で、力になってくれる人もそばにいなかった。 脱出口が見えなかった時期だと言おうか。
その時、家を出て独り立ちした。 両親に自分の辛そうな姿、しかめっつらな顔をした姿を
見せるのが嫌だったからだ。
そうやって、家族にも辛い素振りを見せられず、本当の姿を隠して生きてきた時間だ。
本当に辛い時間だったので、よく耐えたというよりは、耐えられた時間だった。 その時
私が心に抱いて生きていた言葉が「これもまた全て過ぎて行くだろう」だった。
「私の人生がいくら重要であっても、そう、これだけは過ぎ去ってくれ、お願いだ」
こんな心で生きていた。 その瞬間、私にそれ以上の言葉はなかった。
季節が変わり、昆虫達が脱皮をし、蝶も飛んでいこうと自分の体を破らなければならないように
私も変化するために、苦しみを経験しているのだと考えた。 自然の法則がそうであれば、
私の人生も、そこに属しているのだと信じて。 変化と成熟のための苦痛だと信じた。
だから落ち込まなかった。
正直、私が現在大きく成し遂げたものはない。 だから他人に自分の話をすることが照れ臭いが、
一つは言うことができる。 駆ける楽しみ、もちろんそこには苦痛が伴うが、その苦痛を楽しむ方法も
私は言ってあげられる。 私が死んでしまおうと言って壊したものがどれほどで、吐き捨てた暴言
がどれほどだったのか・・・それでも、私が駆けていられるのは、永遠に私のものではないようだった、
ぼんやりしたイメージが、時間が過ぎるとだんだん具体化されていく、そんな感じのためだ。
下書きを描いておいて、これをいつ描くのかと考えるばかりでなく、時間が空くたびに描けば
時間が経つほど、完成した絵を見たい焦燥感で、辛いことも忘れて描くようになる。 これがまさに
走っている苦痛を楽しむ方法だ。
私には、歌がそうだ。 歌の練習をするときは、本当に死にそうになる。 のども痛くて辛い。
だが、その過程で感じられる妙な興奮がある。 おそらく私の練習過程を見守って人は、
怪訝に思うだろう。変わりもしないのに、なぜあんなに毎日練習できるのだろうかと。
だが、私はできる。 毎日毎日書き記しておいていれば、ある瞬間にぱっと進歩する瞬間が
来るから。
だが、大部分の人たちは、ぽんと進歩する瞬間が来る、まさにその直前であきらめる。
あまりにも辛くて疲れてしまうのだ。 だが、ナポレオンが言っている。 大部分の人達は、
成功の直前であきらめて放ってしまうのだと。 だから、私は放ったりしない。 絶対に。
自らを極端に追いやっていく私を見て、人々は、自分をあまり苦しめるなと言う。 だが、
私はそれが、そんなに苦しくない。 修行する人々は、針のむしろに座っているのに、
これくらいで苦しいことなどない。 修行者が肉体を苦しめ、精神的な悟りを得るように、
私も、自分を苦しめ、音楽的成果を少しずつ成していくのではないだろうか。
率直な言葉で、楽に生きようとするなら、楽に生きることが出来る。 だが、私は、もう少し
苦しい方を選んだ。 録音をするときや、歌を歌うとき、あともう少し苦しければ、何か得られる
ような瞬間がある。 その時あきらめず、前に進めば、完璧なものが出てくる。 そのじいんとする
感覚を知っているので、私は止まることができない。 そして、死ぬまで、止まりはしないのだ。
いくら辛くても、最後まで辛いほうを選ぶのだ。
すごいね~!!2年かけて、訳したんですね。
私が以前、ブログをやっていた頃に始めた韓国語。
すごい、上達しまたよね~!!
greenさんに、拍手です!!
私も、greenさんのおかげで、フィソン知り、いろいろと感動させていただいたので、とっても感謝しています。
ぽち☆ですね(*^^)v