緑の光線

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2011-02-27 (Sun)  09:21

「二つの孤独が出会っても孤独はいつまでも孤独である」

두 위로움이 만나도 여전히 외로움이다
二つの孤独が出会っても孤独はいつまでも孤独である
 
フィソン著 『그래도 나는 ing』 より
 
 今まで経験した何度かの恋愛の中で、私が最も凄切に経験したことは孤独だ。
幸せであっても寂しく、辛い時もまた寂しかった。寂しいのが嫌で人を愛するのだが、
なぜいつまでも寂しいのだろうか、なぜ二つの孤独が出会っても、孤独のままなのだろうか。

 先に話した、年上の彼女と付き合いながら、私は自分ではどうすることもできない部分が
あることを痛感した。私は今現在の彼女を得ることはできても、過去の彼女を得ることはできず、
苦しみの中にいる彼女を過去から救うこともできなかった。過去の彼女はそこにい続けた。
それが可哀想で、私は彼女の前でいつも泣いていた。だからすまないと思っていた。
私がしてあげられることがなかったから。

 彼女と一緒にいればとても幸せだが、そのうち喧嘩をすれば私はいつも彼女を泣かせた。
そうやっては仲たがいしては後悔した。愛している彼女を泣かせたという罪責感に震えて。
そんな自分が嫌だった。私はなぜ愛の中で幸せになることもできないのか。

 あえて私が彼女の過去を癒そうとしていたことが、さらに孤独にさせてしまったようだ。
自分の傷を治癒することは自分に課せられたことであっても、私はなぜ自分でそれを全て
やり遂げようとしたのだろうか。とても愛していたから、私が全てを抱きしめたいという気持ち
だったのだが、それが彼女をさらに苦しめた。私はただそばで待ってあげればよかったものを。
こんなふうに私は愛に未熟だった。

 「言ってはいけないのに・・・」

 彼女は後悔したが、もう遅かった。どういうつもりで私は彼女の過去を聞いたのだろうか。
どういうつもりで。私ができることはないのに。おそらく私は愛の傷は、
また別の愛で癒すのだという言葉を信じていたのかもしれない。だが、その言葉は間違っていた。
愛の傷は、傷を受けた人が自ら克服できない限り、どんなすばらしい人に出会っても、
数百回の愛に出会っても、癒されないのだ。愛の傷は人知れない自分の取り分だ。
ただその苦痛から抜け出す瞬間を待って、手を差し伸べてくれる人が、私であればよかったのに。
その時は、それがわからなかった。

 愛すれば、なぜ何度も喧嘩するのか。愛すれば、笑うことばかりだと思っていたのに、
なぜ何度も泣くのか。だから、寂しかった。一人でいる時よりももっと。

 愛していながら、愛にはまることなく、聞くことになる言葉が「私たちもう別れよう」という言葉では
ないか。それが、はたして、本当に別れようという言葉なのか。違う。それは脅迫だ。
別れるのは嫌だという。孤独な私をこれ以上見放さないでという脅迫。愛を確かめたいと
考える、孤独な人間のあがきだ。

 恋愛をして学んだ。完全な二人が出会えば、完全な恋愛をすることができるということ。
孤独な二人が出会っては、完全な恋愛はできないということを。自分の至らない部分を、
別の人で補うことができるという考えは偽りだ。だから、あまりに至らない私と出会った人たちは、
むしろもっと孤独だったのだ。一人でいるときよりも。

 だが、それでも愛は麻薬と同じで、一瞬の寂しさを忘れさせてくれる。彼女に会って、笑うと時や、
彼女が私を見て笑ってくれる時、一瞬の幸せよりも、大きな傷が待っているということを
知っていながらも、その瞬間は幸せだった。愛せるものだ。愛、そのよいものが、
タダであるはずがないから、 それをわかっているから。

 愛しているからといって、必ず一緒にいなければならないということではない。
 別れたからといって、離れてしまったからといって、愛していないということでもない。
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最終更新日 : 2019-06-08

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