『祖国とは国語』 藤原正彦 著
藤原正彦氏は、数学者でありますが、近年『国家の品格』がベストセラーとなり有名になりましたよね。
『祖国とは国語』 この本の中心は、なんといっても、国語教育の重要性です。
国家の根幹は国語教育にかかっている、という主張です。
かつての「ゆとり教育」への転換を機に、小中学校の国語の授業数が減らされてしまいました。
他の教科は削っても、国語だけは絶対に削ってはいけないのに・・・・
藤原氏は、日本の小学校教育は、一に国語、二に国語、三四がなくて、5に算数とおっしゃってます(笑)
そして、不況で国は滅びないが、国語力の低下は国を滅ぼすともおっしゃってます。なるほど!
国語は思考力の源。
文字を覚え、たくさんの文章を読み、文章の意味を理解する力を身につける・・・
これが、思考力を鍛えるんですね。
言語は、単なる伝達手段ではないのです。
私たち日本人は、日本語で意思の伝達、意思の疎通をはかりますが、
それだけではなく、日本語で深く物事を考えるのです。
思考力を養うためには、やっぱり国語教育が重要なんですね。
最近では、英語教育の早期化が叫ばれていて、小学校から英語の授業が始まったりしていますが、
ま、確かに英語も大切ですが、国語の授業を削って英語の授業を増やすのは、
なんとも本末転倒のような気がします。
私には、こどもが二人いて、二人とも小学校を卒業してしまいましたが、
そうだな~~~音読にはとても力を入れていたような気がします。
特に低学年のころには、毎日家で音読していましたね。
ただ、高学年になると、今度は書く力を身につけていかなければならないと思うんですけど、
「書く」機会がとても少なかったような気がします。
日記でも、短めの作文でもなんでもいいから、日常生活の些細なこと、
見聞きしたこと、嬉しかったこと、悲しかったことなんかを、とにかく文章に書かせる訓練が必要
だな~~と感じました。
高校入試の国語の試験なんかを見ると、50字、60字といった、かなり長めの文章を書かせる
記述問題が出てきます。
文章を書く力というのは、やっぱり日ごろの訓練がものを言うというか、
書くことに慣れていないと、いざ50字、60字を書け、と言われてもなかなか書けないんですね~~~
自分の考えをしっかり持つ、それをしっかり順序立てて主張する、
そういう力を持った子どもを育てていく、というのは
日本の将来を考える上で、とっても重要なことだと思います。
スポンサーサイト
最終更新日 : 2019-06-08
No title * by mahomaho
初めまして!
通りすがりですが、とても共感できる内容でしたので、コメント失礼します
私の場合は中高が意見文や感想文など、とにかく文章を書かされる学校でした。なかには毎度の課題にしんどそうな子もいましたが、私自身、書くことを通して様々なことを考え、成長させてもらいました。
やっぱり国語というのは本当に大事で、言葉を獲得することは思考を、知識を獲得することに等しいと感じました!
私もこの本を含め、国語教育に関する本を読んでみようかと思います
長々と失礼致しました!
通りすがりですが、とても共感できる内容でしたので、コメント失礼します
私の場合は中高が意見文や感想文など、とにかく文章を書かされる学校でした。なかには毎度の課題にしんどそうな子もいましたが、私自身、書くことを通して様々なことを考え、成長させてもらいました。
やっぱり国語というのは本当に大事で、言葉を獲得することは思考を、知識を獲得することに等しいと感じました!
私もこの本を含め、国語教育に関する本を読んでみようかと思います
長々と失礼致しました!
No title * by green
「ぜ」さん、そうなんですね・・・・
私は、まだこの方の作品をそんなに読んでいないので・・
もっと読んでみようかなと思っています。
私は、まだこの方の作品をそんなに読んでいないので・・
もっと読んでみようかなと思っています。
No title * by green
mahomahoさん、共感していただき、ありがとうございます。
書くことで、思考力が深まることを実体験されたのですね!
「考える」という行為は、やはり言葉が大事になるんですよね。
言葉を知っていればこそ、いろんなことを考えられて、自分を深められるんでしょうね。
私も「言葉」や「言語」に関することに興味があるので、いろいろ読んでみたいと思います。
書くことで、思考力が深まることを実体験されたのですね!
「考える」という行為は、やはり言葉が大事になるんですよね。
言葉を知っていればこそ、いろんなことを考えられて、自分を深められるんでしょうね。
私も「言葉」や「言語」に関することに興味があるので、いろいろ読んでみたいと思います。
週刊誌のコラム程度がせいぜいの力量かと思います。
自分お家族や周辺を材料にして露出させながら、一方でプライバシーとか自分なりの低次元のユーモアをひとりで喜ぶ姿はある意味ではスノッブな大衆には受けるでしょう